唯物論から。端的に説明をするならば精神や意識よりも物質(自然(nature)、身体)を根源的・実在的とみなす哲学的立場です。
観念論に関してはそれと逆で、物よりも精神や観念を根源的・実在的に見なす立場です。
唯物論と観念論のお互いの面白い見方
唯物論者は観念論に対して「無意味だ。」
観念論者は唯物論に対して「平凡で面白くない。」
理論派(論理派)の人がアートを見て無意味と言っているみたいな?感覚に近いのかしら(※現代アートは本当にわからない)
それにしても記事などを見ていると物質が根源的ではないのかとつくづく思ってしまうのだが、そう考えるとなんか世界ってわかりきっているものみたいに思えてきて絶望感?みたいなのがすごい。だってそんなの面白くなさすぎるもんな。なので片方を執拗に考えるのではなく、唯物論の考え方も知りながら偏りの無いように考えていきたい。
尚自分は観念論の立場に立って問いを立てていく。
Q,人間が物質から作られているならその物質からできている人間が生成するものも物質でできているのではないか?
水素原子と酸素原子(物質)をいくら眺めても「濡れる」という性質は見つからない。
ニューロン(物質)が集まって電気信号をやり取りすると、そこには「赤い色を見て美しいと感じる」といった、物質そのものには備わっていない性質(意識)が生まれる。
→Q,デカルトの方法序説的な考え方で根本の理論が合っていればそれに派生する理論もあっているみたいなのなかったけ?
ゲーデルの不完全性定理により難しい(不可能性)ことがわかる。
ゲーデルの不完全性原理:自然数論を含む無矛盾な公理的体系は、自身の中では真偽を決定できない「決定不能な命題」を含むという数学の定理。
第1定理は「真だが証明できない命題が存在する」
第2定理は「自身の無矛盾性を自身で証明できない」
Q,「美しい」は物質になるのか?
これが真だとしたら、人間の脳を解体して「美しい」と思われる物質を取り出して展示したら最高の作品になるだろう。(皮肉を込めて)
美しいと感じている→脳内ではドーパミンやエンドルフィンといった化学物質が放出され、特定の神経回路(報酬系)が電気的に発火している
上の論理回路の問題点、「何に」がわからないというものがある。何に対して美しいと感じているのかがわからない。
「何に」を知る方法は情報を取得したインターフェースを見る必要がある。つまり五感。しかし五感だけでは美しいを感じることはできない。特殊(条件付き)感性を呼び起こすには記憶が必要になってくる。純粋感性はなんなのだろうか?純粋感性はあるのだろうか?
ほとんどの場合が特殊感性に近い場合に限って特殊感性に注目して考えてみる。
視認する→記憶回路が回る→美しいと感じるV美しいと感じない
美しいと感じる→脳内ではドーパミンや…(省略)
→Q,記憶は物質であるか?
Q,物質は「美しい」を感じれるのか?「絶望」を感じれるのか?
Q,「美しいと感じる」ことが機械的に行われているならば「感じる」の部分がなくなるので、「取得する」などになるのではないか?(そもそも感性なんて無いのではないか?)
Q,もしかして感情にもクオークみたいな根本感情みたいなものがあるのか?
真だったとしてもそれが物質と呼べるかと言われれば否。しかし全ての感情が説明できるようになり作れるようになる。

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